茶室「隔林亭」学術調査(3DLS)
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目的
茶室「隔林亭」学術調査(3DLS)
活動内容
隔林亭(佐賀市)の学術調査(3DLS)を実施しました。
隔林亭(佐賀市)の学術調査(3DLS)を実施しました。
茶室「隔林亭」は、1846年に造られた佐賀藩主鍋島直正公(肥前佐賀藩10代藩主)の別邸で、「神野のお茶屋」と呼ばれています。もとは「茶雨庵(さうあん)」と呼ばれ、明治初頭頃、直正公の側近中野数馬に下賜され、「隔林亭」と名付けられたと言います。「茶雨庵」の名は、直正公の号である「茶雨」から名付けられたものと言われます。ちなみに直正公は、『天下に先んじて憂い、天下に遅れて楽しむ』の名言を残した人です。
この隔林亭は昭和35(1960)年に老朽化のため解体。その後1枚の写真と古図を元に、平成5(1995)年に神野公園に復元されました。
炎天下の中、外腰掛から中門を潜り、蹲踞へ。そして躙口の先の土間には塵穴が穿たれ、茶席での客への配慮が偲ばれます。
茶室内部は三畳台目。躙り口上部に片引き障子の下地窓。その矩手には引き違い連子窓を配し、明るくもなく、暗くもない絶妙の明るさの空間を演出しています。天井は化粧屋根裏を見せる掛け込み天井と蓆(むしろ)を竹で止めた平天井。天井廻り縁は、四方で部材を変え、竹や面皮付きなど意匠に富みます。皮付き丸太の床柱には花釘見られます。
池泉に浮かぶように設けられた板間は、この猛暑の中でも風がそよぎ心地良い空間です。まるで一国一城の主にでもなったかのような時間が流れます。
昔の日本人は、現代人と比べると各段に時間の過ごし方がうまいなと考えさせられました。